礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小林篤郎『物質の謎』再版(1946)の「序」

◎小林篤郎『物質の謎』再版(1946)の「序」

 今月二七日に、小林篤郎著『物質の謎』(大雅堂、一九四四年八月二〇日初版)の「序」を紹介した。
 実は、この本には、戦後に出た「再版」が存在する。本文は、一字一句、変わっていないが、「序」は、まったく別の文章になっている。初版にあった「『ぼくらの文庫』刊行のことば」は、削られている。表紙の刷色にも、若干の相違がある。再版は、一九四六年(昭和二一)三月二〇日発行、売価金六円、発行部数は不明。
 本日は、その再版の「序」を紹介してみたい。

 
 日本は今、苦しみに喘いでゐます。悲しみのさ中にあります。誰もが憂鬱で気難しく、ともすれば取止めのない愚痴に耽つたりします。是ではならない筈です。誰にでも分つてゐます。然し今、声を大にして頭の切替を叫び、聖人ぶつたお説教をしたくありません、誰にその資格がありませう。むしろ、悲しみに徹し、苦しみに直面せよと言ひたいのです。口先だけで立派なことを述べたり、力も考へも足りない人がそれを粧つたり、他人に強制したりする事が如何につまらないことであるか、嫌と云ふ程味はゝされたではなかつたででせうか。偽りと無智の上に築かれた努力が如何に果無い〈ハカナイ〉ものであるかを、血によつて教へられたのではないでせうか。そして大きな悲しみと苦しみに徹した者にこそはじめて立上りの勇気と反省が与へられるのではないでせうか。
 さうです。是からの日本人は別して〈ベシテ〉聡明でなければなりません。そして誠実でなければなりません。聡明とは単に学歴を増やす事ではなく、ほんたうに身についた智慧の事であり、誠実とは他人に対してよりも先づ自分に対するものであると思はれます。
 此の書物は未来ある純真な少年少女諸君に献げたものです。こんな小さな書物でも、皆さんの「科学の眼」を養ふのに役立てばといふ希望を以て書かれたものです。我々を取り囲む一見つまらない種々雑多の出来事の内に、どれだけ意味深い真理が隠されてゐるか、又それを探り出すには実際どの様にするかといふ事に就いて、出来るだけ数式を用ひないで気軽にお話した積りです。
 科学は皆さんの周囲にあります。皆さんの毎日の生活にあります。神秘と現実とは背中合せなのです。私達は普通是を見逃してゐるのです。それを見抜くには、素直な心、鋭い眼を養へば良いのです。言葉や形に騙されてはいけません。実際、一滴の水、一瞬の光にも驚く許りの美しさと秩序とを含んでゐます、その中には数学もあり、物理学もあり、化学もあります、たゞ、私達が学校で習つた時の様にそれ等はばらばらではなくて一つに融け込んでゐます、是こそほんたうの姿なのです。敏感な心の持主ならば自然の奏でる妙なる〈タエナル〉音楽さへ聞き取る事が出来るでせう。一生かゝつても解き尽せない「謎」の面白さに惹きつけられるでせう。
 反省してみれば皆さんを教へて来た勉強の方法にも不充分な点が可なりあると思ひます。余りに教科書中心主義で字句の解釈に堕したり、実験本位を唱ヘながら、実際の設備は言ふに堪へない程貧弱だつたり、理詰に過ぎて生々とした心の動きと無関係だつたり。例へばこんな事はなかつたでせうか。数学の時間が始まつて約三十分、そろそろ悪太郎共は退屈を感じ初めてゐます。突然、黒と黄とのだんだらに染め抜いた粋な蜂が飛び込んで来ました、凡そ「墜落」などゝ云ふ事からは縁の遠い軽快な飛行振り、一体どの様にして蜂は翔べるのだらうか。一瞬誰でもかう考へます。併し次の瞬間、先生の恐い眼が皆の心を「数学」に引戻します、折角の自発的な素直な疑問も答へられないまゝに終ります。悪太郎とて感ずるのは同じです、誰かその素直さを賞めて自発的な心の動きをのばしてやる人はゐないものでせうか。
 誰もが驚きの心を持つてゐます、謎を解きたい、知りたいと熱望します、何故は何故を呼び、徹底的に理解を要求します。それは結局、物の内部はどうなつてゐるか、色々な物の性質はその内部の仕組とどの様な関係にあるのかといふ事に帰着します。著者が勇を振つて筆を手にしたのはこの様な知識をもつと多くの人々に親しみ易くしたい為です。スペクトルとか電子とか云ふ言葉がとび出して来るので一寸難しさうに見えますが、それはラヂオとか電気とか云ふのと同じ様に馴れゝば何でもない事です。尤も、茲に記した事柄全部を記憶して戴きたいのではなく、素直な疑問と、ひいては限り無い真理を追い求める熱情とを願つてゐるのです。そして皆さんの内一人でもこの自然の真理に打たれ、聡明への道へ一歩踏み出されたならば著者の幸ひは是に過ぎるものはありません。
 昭和二十年十二月   京都北白川にて   小 林 篤 郎

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